GHQ焚書


GHQ焚書

 日本を占領したGHQ(Ceneral Headquarters 連合国最高司令官総司令部)は、戦前まで刊行されていた大量の書物を、全国各地から没収・廃棄(焚書)するよう日本政府に命令し、文部省や警察を使って、全国の書店や図書館から秘密裏に書物を没収しました。こうして誰も気付かないまま、多くの書物が日本から姿を消しました。それらの中には、日米開戦に至るまでの国際状況を詳細に分析した学術書や、現代の教科書には載っていない日本人の生き方や叡智が凝縮された書物もたくさん含まれているようです。
 戦勝国が敗戦国の憲法を創ったり、歴史を消したり、文化を踏みにじったり、書物を焚書することは国際法上許されない行為です。復刻されたこれらの本を通して、GHQによって意図的に消された戦前と戦後の間の空白の歴史を繋げて、これからの生き方を模索していかなければと思います。

📚 食糧戦争
著者:丸本彰造
発売日:2024年2月7日

おすすめ度:

評価 :5/5。

🎉🌟


食糧戦争

 昭和19年(1944年)刊行。GHQはなぜこの『食糧戦争』を焚書にしたのか。GHQは日本が二度と米国に対抗できるような強国にさせないために、多くの分野でさまざまな仕掛けを実施したのですが、食糧についても日本人が目覚めないように仕向けました。アメリカの余剰小麦等の処分場と定めて、日本の農業を弱体化させて食糧自給率を低下させ、軍事力だけではなく食糧の自給という最大の安全保障をもアメリカに依存させようとした、のでした。著者は陸軍の経理局所属で、この本では「食」の専門家として大東亜戦争を勝ち抜くために、食糧自給自足国を作り上げ、栄養充実元氣旺盛国を作り上げ、人口増殖世界一国を作り上げることを説いています。戦時下に書かれ、国民に食糧確保を促している本ですが、食糧を自給し食生活を改善することがいかに重要であるか、現代の私たちに示唆するところは非常に多いです。

  • 国防国家建設の見地よりすれば、国民食糧を外地依存にゆだねることは、この上なき危険である。(食糧の豊富な供給力を有する南方諸地域を擁しており、それを運ぶ船腹もないわけではないが。)
  • 前の欧州大戦は、食糧に始まり食糧に終わった戦争だと観察している。ドイツ軍は武力戦には勝ち続けて居ったが、三年目に入ってから、労力不足、資材不足のために、食糧の生産が著しく減少し、加えて外国からの供給は杜絶し、食糧のために遂に破れてしまったのである。
  • 食糧は、日常生活の根元をなすものであるが、わが国民は余りにも食糧問題に対して無関心であり過ぎたと思う。学校教育からして、しっかりと食糧教育、生活教育を十分に施すことが肝要であると思う。
  • 食糧こそ国防の第一線である。国防の独立は食糧の独立を前提とする。農村は、民族増強の基地であり、食糧の確保は農村の力に依らなければならぬ。
  • 国防の上から、食糧はどうしても各自充実して、戦争のあった時、朝鮮でも台湾でも、なるべく自給の状態に置かないと、台湾海峡、朝鮮海峡が危険に瀕した場合どうするか。それぞれちゃんと生きて行かれる途をつける事が出来ないで、何の国防があろう。国が滅びて何の生甲斐があるか。
  • 戦時にはより一層、体力気力の増強を心がけねばならぬ。栄養第一となし生産力本位となし量は充分に体の栄養となるものを必要とする。要は「調理法の改善」と「合理的に活用する」ことにある。
  • 工夫して、一粒一菜をも節約すると同時に、なお一方、何とかして一粒一菜でも余計生産を計りたいと思う。玉蜀黍、馬鈴薯、甘藷、豆、唐茄子、胡瓜、大根等、何でもよいから、余計作る方法を講じる。庭の隅とか鉢植でもよい、幼い子供達も食料問題解決に参加させたいものである。
  • 蛋白質は身体の構成、体力の維持、組織の増殖等に必須不可欠の栄養素であって、これが欠乏は栄養不足、発育不全を来たし、貧血症に陥り身体の抵抗力を減退し、種々の病原菌に対する感受性を大ならしめ、また活動能力にも至大の関係があるのであるが、現状を顧みるに、この国民体力の根幹ともいうべき蛋白質の供給が、危機線上にあることを看過するわけにはゆかないのである。→ 食用魚粉の利用
  • 大豆は自ら空中窒素を固定せしめて、自己を成育する臨時的作物であるから、努力次第によっては相当増産の可能性がある。生大豆の含む蛋白質は植物性より寧ろ動物性蛋白質に近く、その含有量が豊富である。→ 生大豆粉の利用
  • 甘藷、馬鈴薯は反当収穫カロリーが米麦より遥かに大であり、且つ増収余地が面積に於て、技術に於て多大であり、食料問題解決上最も有力なる資源である。
  • 戦時都市の各家庭がたとえ小なりと雖も、菜園を持つ様になれば、かつて味わったことなき新鮮な野菜を味わい、保健栄養上に資することが出来るのみでなく、野菜栽培の労苦を思えば、一本の大根、一塊のトマトすらこれを得ることの容易ならざることが明らかになった、決戦体制下に最も必要なー無駄排除、消費合理化の観念涵養も自ら行われることになるのである。
  • 食を摂ることによって、食糧を確保し、体力を増強するのであるという食糧を尊び、栄養価を信じー国家意識の真味を以て食べる、この食を得るを感謝し喜んで食べる、換言すれば、口で食べるのではなく頭を以て食べ、心で食べ、以て積極的に嗜好を開拓すべきである。
  • 今日に於ける国民の健康状態を顧みるに、由来日本人の健康状態はまことに列強に比して甚しき遜色がある。即ち結核、胃腸病、脚気、脚気様症状の頗る多いこと、それらを巡って日本人の健康状態は頗る弱体であり、そうしてまた、短命である。何故か。その殆んどが、つまり栄養欠陥による白米食に原因して居るのである。玄米食によるならば、蛋白、脂肪もまた白米に比して著しく多く摂ることが出来る。豊富なるビタミンB1、なおビタミンB2、Eというものも他に比して、玄米に多く存する。燐、鉄、或はその他の無機塩類も同様に玄米には富んで居るのである。
  • 「玄米食は消化吸収が悪い」と、漫然と誰もが考えている。ところが、一定量の米穀も利用する場合に於て、白米にして食べるよりも玄米で食べることが、消化吸収量が多い。而して特に質的に断然宜しいのである。そうしてこの消化吸収の率の問題は、炊き方、食べ方に気をつけるならば、もっと向上することが出来るのである。
  • 混食、雑食の励行は、また一方、目下憂えられている国民栄養の改善、体位向上の見地から言っても、この際とくに必要である。
  • 調理する者の道は、単に食物をつくり、これを供膳するを以て足れりとせず、この食物を通して、「潑剌たる元気と共に、忠実と慈愛と親切の精神を与えるものなり」という信念があってこそ、真に衛生にかない、栄養に合し、嗜好に投じ、しかも経済的であるという食物調理ができるのである。云い換えれば、食物調理は調理する者の人格表現に外ならぬということである。即ち一品の料理を見て、これを作った人の技術はどうか、栄養衛生知識がどの程度かということを察し得られるものであり、また、調理者の精神を観破し得るものである。

 この本が書かれたのは、ガダルカナル戦後で大東亜戦争の形勢がいよいよ芳しくない頃です。食糧は戦争の勝敗を決するほど重要なのです。食糧を外国に依存し(日本の食糧自給率はカロリーベースで37%)、食の安全が脅かされている現状を、一人一人がぼーっとしないで真剣に考えなければならないと思いました❗️
 余談ですが、近衛文麿が日米戦争へのレールを敷いた後に政権を放り出し、大東亜戦争中にも足繁く鰻屋に通っていたというエピソードが、この本が書かれた状況と背景に対照的すぎて、ついつい思い出されました😩

📚 二千六百年史抄
著者:菊池寛
発売日:2023年6月1日

おすすめ度:

評価 :6/6。

🎉🌟


二千六百年史抄

 昭和15年(1940年)刊行。歴史学者ではないが、歴史を愛し、歴史上の諸人物に親しみを持つ点においては、遅れを取らないという近代文学の巨匠、菊池寛による日本の歴史です。日本の歴史の知識を十分に持つことは、日本人としての自覚を持つ上で、最も大切なことではないかと著者は言います。稀代の小説家として、2600年の日本の歴史、日本の国体、日本精神を美しい文章で、この短い本の中に分かりやすく凝縮しています。

  • 頼朝が、その武家政治によって、天下を統一し、国民生活を安定せしめた功績は、武家嫌いの北畠親房さえ、之を認めているくらいだが、朝廷に対する尊崇の念を多少とも有していた彼が、日本の国体とは相容れざる武家政治を開始したことは、百世の下、やはりその責任は問われなければならぬと思われるのである。いわゆる、大衆間の判官びいきの反動として、世の識者の間には、頼朝を偉人として認める人が多いが、幕府の統制強化のためとは言え、義経、範頼を初め眷属功臣を殺すこと、百四十余人に及ぶと言われ、また強固なる幕府は建設されたが、彼の正統の子孫が、ことごとく非命に倒れることを予知しなかった彼には、どこか人間として、欠陥があったのではあるまいか。
  • 北畠親房は、吉野の朝廷の中枢にあって、軍政両方面に肝脳を砕いていたが、人心の退廃を嘆じて、日本の国体を明らかにせんとし、「神皇正統記」を著述した。生きては老躯をもって朝廷に尽くし、その二子顕家、顕信を君国に捧げ、死しては、その著述によって、皇基を永久に護っている。私は、北畠親房を、日本無双の忠臣だと信じている。
  • 戦国時代は、一見いたずらに混乱した暗黒時代に見えるが、この中に日本全国が自ら統一に向かって、動いていたのである。しかも、群雄の胸裡に共通した思想は、京都に出で、皇室を戴くということであった。天日を掩っていた雲が除かれたごとく、足利将軍が没落すると共に、皇室尊崇の思想が目覚めてきた。領土拡張に夢中に見える群雄達も、皇室を戴くにあらざれば、天下に号令することが不可能であることを、皆心得ていたのである。
  • もし、鎖国令という桎梏を受けないで、日本民族の進取の本能に任せて海外発展が続けられていたなら、二、三世紀前、すでに南洋一帯は我が版図になっていて、今ごろ日本は、東洋の平和、世界の平和のために、有力な役割を果たすことが出来ただろう。いかにも残念なことである。
  • 織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、皇室に対する純粋な敬意を持っていたが、徳川氏はそれを継承せず、徳川家康にしろ秀忠にしろ、皇室に対して、終始政略的であり、江戸幕府の朝廷に対する態度は、国史を読む者にとって、痛憤を感ぜしむる点が、甚だ多いのである。
  • 吉田松陰自筆の「留魂録」の冒頭の歌 
    身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
  • 慶喜は、フランスの援助を拒絶したし、西郷隆盛は、英国の援助をキッパリと断っているのである。慶喜といい、西郷といい、わが国体という点にいたって、その両極端の立場にもかかわらず、期せずして一致したわけである。外国をある程度まで利用しようと考えたであろうが、その国政干渉は一歩たりとも許さなかったし、近づけもしなかった。そこに維新史を流れる、日本人独特の力強い信念の流れを見るのである。以夷制夷など、しょせん日本人にはできない芸当なのであろう。
  • 当時の最高知識たる井上毅は、金子堅太郎、伊藤巳代治を率いて、その起草に惨憺たる苦心をしたのである。元来、憲法は、欧州に発達したもので、民主的色彩の強いものである。それを日本に採用するについて、伊藤は渾身の努力を傾け、日本精神の根底をなす、皇室中心の忠君思想を盛って、日本独特の憲法を起草したのである。
  • 日清日露両役を通じて、明治天皇が、軍国の御政務に御精励遊ばされた御様子は、恐れ多き極みで、幾多の御製を拝してもその一端を拝察することが出来るが、二箇年の歳月を経た日露戦争後には、漆黒であらせられた御頭髪が、半白にならせ給うたとの事で、恐れ多くも、六年後の御大患は、この戦争中の御過労に起因するとも言われているのである。国家のいかなる大事変に際しても、何人よりも先に御軫念遊ばされるのが、上御一人であることを思うとき、我々は三思して日本国民たる多幸を思い、奉公の誠を尽くすべきだと思う。

 教科書には表面的な事象しか書かれていませんが、2600年に及ぶ皇室を中心とした日本のお国柄であったり、歴史上の人物の詳細な人間像を知ることはためになります。素晴らしい名作歴史書であり、あらためて、菊池寛は並外れた戦前の作家だと思いました🎉

📚 ユダヤ禍の世界
著者:筈見一郎
発売日:2022年3月31日

おすすめ度:

評価 :5/5。

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ユダヤ禍の世界

 この本はユダヤの歴史(創世記の伝説、メシアの思想、選民思想、シオニズム、タルムッドなど)から、中世ヨーロッパのユダヤ人、東欧ユダヤ人、西欧ユダヤ人とマルクス主義、フリーメイソンの意義と歴史、ソ連とコミンテルンの真相、英米仏等のユダヤ閥、極東と欧米ユダヤ閥などについて書かれています。アヘン戦争、日露戦争、第一次大戦、ロシア革命、支那事変など、世界史上の大事件の背後には全て「ユダヤ人」がいたようです。
 このような話は今の教科書には書かれていませんし、メディアは絶対に報道しないので、我々日本人はさまざまな事件の背後にどういう思惑があるのか、ニュースは正しく報道されているのか、自分の頭で考える材料が欠落していると思います。しかし、戦前の日本人は新聞などでも報道されていたため、世界中でユダヤ人が暗躍していることを把握していました。歴史は繰り返す、と言いますが、このような背景知識は、今現在起こっているコロナ騒動、ウクライナ戦争、食料危機、エネルギー問題、グローバル化などの背後にはいったい何があるのか、考えるために必須のインテリジェンスです。
 「ユダヤ = 悪」というわけではありませんが、英米仏の金融界を牛耳り、権力者を影で操り、二度の世界大戦を含む世界中の戦争を煽ったり、革命の歴史の背後には常にユダヤの存在(国際金融資本家)があったり、というようなことは知っておくべきでしょう。このような知識や過去の教訓が、日本人としてどう国益を守っていくか、国際政治においてどう振舞っていけば良いのか考える材料になると思います。

📚 少年楠木正成の精忠
著者:浜田寿郎
発売日:2024年3月29日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。


 笠置の行宮の大命を拝して以来、赤坂の春に、千早の秋に奮戦苦闘して、遂に湊川の露と消えた、正成公の至誠純忠の精神と、目にあまる潮のごとき大軍を散々に悩まし尽くした、勇ましくもおもしろき活躍の物語りが描かれています。 「七度生まれて君が代を護りましょう」と叫んで、湊川の露と消えた、我が国一代の忠臣楠木正成公の熱烈な精神です。

 「正成一人未だ生きてありと聞こし召さば、聖運遂に開かれて、春光麗らかなる天日を仰ぐ日の必ずめぐり来ることと思し召していただきとう存じます。」

 楠公父子桜井の決別

 「お父さんが今生において、汝の顔を見るというのはきっと今日が最後であろうと思う。もしもお父さんが討ち死にしたならば、その時こそ天下はきっと彼尊氏のものとなって、恐れ多くも天子様にはいかに憂き月日をお送り遊ばすようになるかも知れない。」
 「お父さんの汝に確りと頼んでおきたいのはここだ、お父さんの亡き後で苟且にも汝は命など惜しんで、忠義の心を失ってはならん。利欲に迷うてお父さんの志を捨ててはならない。」
 「一族郎党の者一人でも生き残っている限りは、金剛山に立て籠もって菊水の旗を翻し、天使様をお護り申しなさい、これこそ汝がお父さんへの第一の孝行となるのだ。」
 「戦場へお父さんとともに行きたいと申すのか、その汝の精神は誠に感心のほかはない。しかし汝はお父さんの死んだ後に、誰が天使様をお護り申し上げると思うのか、このお父さんの精神を受けついで、皇居をお護りする大任を果たす者が他にあると思うのか、汝よりほかに決していないのだ。」
 「汝が一命を捨つる時は、きっとあまり遠くない将来に来るであろう。その時こそ一族郎党を呼び集めて、華々しい合戦をし、賊軍を討ち破って再び君の御代となし奉りなさい。これこそ君への真の忠義であり、親への真の孝行なのだ。このくらいの道理の判らぬことはあるまい。」
 「汝は百獣の王といわるる獅子を知っているであろう。あの獅子は子を生んで三日経つと、その子を数千丈の谷底へ擲げ落として、その気を試すそうである。もしその子に獅子の元気があれば教えないでも、一人で這い上がってくるそうである。獣でさえも王といわるるくらいの者はそれだけの気概がある。」
 「まして汝は武士の子であって、年は既に十一の少年である、お父さんの言って聞かしたことが一言耳に止まっているならば、必ず朝敵を討ち滅ぼしてお父さんの名を辱めないようにしてもらいたい。

 君がため散れと教えて己れまず嵐に向かう桜井の里

 楠公が「七生滅敵」と誓ったのはカルト的な話ではありません。幕末においても、吉田松陰をはじめとする志士たちが、自分も楠公の生まれ変わりたらんと念じ、国難克服のため命を惜しまず行動しました。松陰亡き後の長州藩が、江戸幕府の大軍を撃退した第二次長州征伐にせよ、武家政権を斥けて国体を全うする湊川の戦いのリベンジだったとさえいえるかもしれません。日露戦争でも、決死の旅順閉塞作戦に出撃する廣瀬武夫海軍少佐が、かねて崇敬していた楠公にあやかり「七生報國」と書き残して出撃しました。大東亜戦争末期には、10次にわたる「菊水作戦」で特攻隊や戦艦大和率いる第二艦隊がアメリカ軍侵攻中の沖縄へ向かい、また「菊水隊」「金剛隊」「千早隊」「多聞隊」などと命名された回天特別攻撃隊が出撃しました。
 楠公は死んでも、楠公精神が後世の日本人の「生」を借りて蘇り続け、彼らのように先立つ偉大な楠公崇敬者を媒介して、今日まで永く伝えられたといえるようです。戦後、GHQが楠公に関する書籍を発禁処分しましたが、戦後も日本人の心の一角に楠公は確実に生き続け、戦前からすっかり転換してしまった思想風潮さえも楠公を消し去ることはできなかった、とのことです。

📚 全日本国民に告ぐ
著者:陸軍大将 荒木貞夫
発売日:2023年9月10日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。

全日本国民に告ぐ

 本書は1932年、陸軍大臣だった荒木貞夫が書きました。荒木は日本の国際的地位の向上と国民の精神的統一を訴え、天皇制や皇道教育の重要性を強調、日本の歴史や文化に誇りを持つべきだと主張しました。そして、自らの政治経歴や思想形成の過程を振り返りながら、全日本国民に自覚と覚悟を求めました。
 昭和の前期に、統制派皇道派という陸軍の中に大きな二つの派閥がしのぎを削っていました(これらの言葉は陸軍に関する研究で戦後にできた言葉であり、戦前はそういう言葉を使っていない)。これまでの戦争とは違い第一次世界大戦は国民総動員の戦争であり、それぞれの工業力、産業力、経済力、政治力、外交力、国民のレベル・士気、そういったものが戦争全体に大きな影響力を及ぼすものでした。これを見て、陸軍も海軍も現状の日本の体制ではとても次の戦争は戦えないということで、どういう新しい体制で国民国家を作っていくのか模索されていました。皇道派は国民の意識を高めて、天皇を中心とした国家体制を作るのが先決だという考えで、荒木貞夫大将は皇道派のボスと見られていました。その後、皇道派の将校が起こした二・二六事件の責任をとらされ、予備役に編入されました。皇道派のボスとしていろいろと言われながらも、国民的な人気がある人であり、終戦の時まで枢要な地位にありました。
 この本が書かれた1932年頃は、関東大震災(1923年)から9年ほどたって復興の途についたとはいえ、殺伐とした時代でした。1929年にはアメリカのウォール街で株価が大暴落し、日本にも大不況の波が押し寄せていました。この不況はサラリーマンはもとより、農村に大きな打撃を与え、農村では自分の娘を身売りしなくてはいけないという状況でした。また満州事変第一次上海事件五・一五事件国際連盟脱退という大変騒然とした国内外の情勢でした。(立憲)政友会と(立憲)民政党の政権がほぼ毎年入れ替わり、経済政策がころころ変わったり、政策ではなくて党派・党利党略にうつつを抜かして、日本の政党政治が行き詰まっていました。部下の兵隊の実家の農家がまともに食えないという状況で、陸軍も海軍も国民のことを思い、国家のことを思うと政治体制のあまりにも不甲斐なさに怒りを持ってる、そういう時代背景がありました。

  • 現代日本の急務は、唯物的・末梢的議論に非ずして我が建国以来の日本精神の把握とその実際的具現である。
  • 東亜の諸国は白色人種圧迫の対象となっている。覚醒したる皇国日本は、今日以上に彼等の横暴を許容することは出来ない。禍乱の発生、平和の破壊に対しては、日本は実力に訴えても、徹底的にこれが鎮静を期するだけの覚悟が不断に必要である。
  • 最後まで全力を挙げて、勝利を求めるという意気がなければ、独り戦場ばかりではなく、人間万事決して大事を成すことは出来ないのである。
  • 財界の現状を見るに、とかく何事にしろ目前の利益あることのみを欲求する傾きがある。しかし、利益第一主義よりも、経営第一主義がより大切である。政治上に於ても経済上に於ても、単に日本のことのみを見ず、眼界を広くして将来まで達観し、しかも目前の困難を克服する工夫を懈ってはならないのである。
  • 日本神話の一番始めに、伊弉諾尊・伊弉冉尊が、「漂える国を造り固めなせ」即ちこの混沌たるところから理想郷を現出せよ、この混沌たる中から、日本人としての本当の仕事、本当の精神を打建てよと宣うたのである。我々の祖先から今日まで、脈々たる血管の中に流れているものは、日本人たる精神であり、日本民族たる魂である。
  • 我が国民は須く沢山働いて、適当量の生産をなし、適当に得たる収益を以て、一杯の晩酌に一日の労を癒し、家内平和裡に若干の貯蓄をなし、あり余りし金は、社会的事業・国家的事業にドシドシ寄付する。実に痛快ではないか。真に人生の快楽は此処にある。何処にマルクス主義の侵入する余地があろうか。
  • 日本の軍隊は実に陛下を中心として国家に対する奉仕・奉公である。義務と申すよりも奉公であるとの信念に立つものである。
  • 世界は欧州だけの天地にあらず、米国のみの地球ではない。亜細亜にある皇国日本は、亜細亜と欧米と相伍して世界文化の発展に寄与すべく、茲に亜細亜先導の大任を全うしなければならぬ。公明正大・仁愛にして他を排せず、勇断武侠以て国際に処し、皇道を一貫するは昭和日本の対外使命である。
  • 名利から超脱して、而も非常な情熱を以て一つの問題に突進する。南洲翁(西郷隆盛)が征韓論で故山に帰り、楠公(楠木正成)が戦敗れながら最後までやり通す即ちこれである。その気魄は真に日本人らしい気持ちである。
  • 日本の武将の陰には自ら昭々たる大義名分があり、これに伴う哲学・道徳というものが脈々として流れている、従ってこれ等の道義心、又は人生に対する哲理を味得するまでに、人間として血のにじむような心の修養訓練を鍛え来っている。相模太郎北条時宗、大楠公、上杉謙信、加藤清正、大山元帥と黒木大将。独逸のヒンデンブルグ元帥と仏蘭西のフォッシュ元帥。

 荒木貞夫は筋金入りの精神論者と言われるも、明るいキャラクターであって、戦後も人気が衰えず、日本中で講演活動をしました。この本に書かれているような、「日本精神を取り戻さなけらばならない」ということを戦後バージョンで話されたそうです。現代の政治家や我々自身が、日本精神について学び直さないといけないと思います🔥

📚 幕末の海軍物語
著者:中島武
発売日:2023年3月31日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。


幕末の海軍物語

 日本の歴史は江戸から明治に変わるとき、それから敗戦のとき、2度書き換えられました。戊辰戦争に勝った薩長新政府が江戸は悪い、明治が良い、という書き換えを行い、そのあと戦争に勝ったGHQが戦前は悪い、戦後はアメリカの言うことを聞きなさい、としました。戦争に勝ったものが正しくて、負けたものが悪いでは、歴史は戦勝国の捏造になってしまい、世の中のことが分からなくなってしまいます。教科書では明治5年に海軍省ができました、ということで日本の海軍は明治政府が作ったと思っている人が多いですが、実際は日本海軍は幕末に老中阿部正弘、そして小栗上野介が作りました。海軍ということでみると、江戸と明治は繋がっており、一貫した海軍の歴史がこの本には記されています。

  • オランダ人風説書
     寛永15年(1638年)大船建造の禁令を発し、鎖国に入ってから天保時代に至るまでの二百年間、国家は昇平無事にして、海外のことにを顧慮する者は一人もなかった。当時、海外の事情を知るのは、年々長崎に入港するオランダの船がもたらす風説書に頼るほかになかった。
  • 海軍創設の機運
     1854年ペリー艦隊が帰国して4ヶ月後に、ロシア使節プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、日露和親条約の締結を目的に下田に来航する。このとき大地震と大津波が下田湾を襲い、ディアナ号は大破、修理港と決まった伊豆西海岸の戸田へ向かう途中で沈没する。プチャーチンは直ちに帰国用の代船の建造を幕府に願い出て、幕府も許可。近郷の船工や幕府の大船製造に関わっている職人らと日露共同で、洋式船シコナ号が作られた。シコナ号建造に携わった諸工の多くは幕府海軍所属となり、後に横須賀海軍工廠の職工となった者もいる。こうして、我が海軍を創設すべき機運が、次第に熟しつつあった。
  • 海軍伝習所と咸臨艦アメリカ渡航
     江戸幕府が海軍士官養成のため、長崎でオランダ人を教師として航海術、造船学、砲術、測量学などを学ばせた。幕府より命じられた者以外にも、早くから蘭学が開けた佐賀藩など諸藩の伝習生もいた。長崎造船所の前身となる飽之浦製鉄所が併設され、「軍艦は御国印の白地日の丸の他、白地中黒の旗を常に大マストに掲げるものとする」と決定した。
     英仏露とは江戸で、オランダとは長崎で通商条約の交換を行うことになったが、アメリカだけはワシントンで行うことになった。目付小栗上野介忠順を副使とした幕府の使者がアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り、スクリューを備えた西洋式軍艦咸臨丸には木村摂津守(司令官)、勝麟太郎(艦長)、中浜万次郎(通訳)、福沢諭吉などが乗って、サンフランシスコに入港した。これが帝国海軍の軍艦が外国に航海した最初であった。
  • 小笠原島開拓
     小笠原島は文禄二年(1593年)に小笠原民部少輔貞頼が徳川家康の旨を受け、伊豆の下田からこの島に至ったのが、日本人が同島に行った最初である。その後ついに放棄して無人島になってしまった。
     カリフォルニアおよびハワイから広東地方に往来する外国人は、皆が航路をここにとるようになった。小さな群島に過ぎないが、はるかに伊豆地方と対峙し、八丈諸島を挟んで、決して遠いとは言えない南の国境であり、放ってはおけないということになった。咸臨艦、朝陽艦を派遣し、諸外国領事に向け通牒を発して小笠原開拓のことを明らかにした。
  • 生麦事件と薩英戦争
     文久二年(1862年)島津久光の行列が横浜近郊の生麦村にさしかかったとき、行列を遮ったイギリス人を薩摩藩士が斬り殺した生麦事件。これがきっかけとなり翌年、薩英戦争が勃発した。艦隊の力を背景に生麦事件の解決と補償を迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。鹿児島の城下町が焼失し、砲台に損害が出た一方、イギリス軍艦も艦長の戦死や大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘以後、両者が一転して接近していく契機となった。
  • 神戸海軍操練所
     元治元年(1864年)幕府が神戸に設置した海軍所、造艦所である。当時は開国を説く者もあり、攘夷を論じる者もあり、同志を募り、党を組み、国内騒然としていた。勝麟太郎らは人心の向かうところを一転させ、この輩を集合して船舶の実地運転に従事させ、遠く上海、天津、朝鮮地方に航行して、その地理を目撃し、人情を洞察させようとした。坂本龍馬もこの案にとても賛成した。
  • 馬関の砲戦
     文久三年(1863年)5月10日を攘夷期限とする朝命を実行すべく、長州藩は下関(馬関)海峡で外国船を砲撃した。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊は下関の砲台を攻撃し、長州藩は散々に打ち破られた。そもそも馬関の地勢は無双の要害で、海峡は潮流が速く、海路もまた険悪で、海上より攻める方にとっては非常に不便であった。勇敢なる長州兵がかなり善戦はしたのだが、海軍がなかったために脆くも敗れた。この経験は、我が国人をして海軍の必要を強く感じさせた。
  • 横浜および横須賀製鉄所
     自分達の力で日本を守るために、海軍力を増強させ、軍艦を造り、近代的な造船所を建設する必要があった。その計画を立てたのは、幕府の勘定奉行から軍艦所のことを兼務した小栗上野介忠順であった。当時上海にいた海軍技師ヴェルニーに委託し、フランスの要害ツーロン港を彷彿とさせる横須賀に造船所を起工した。将軍慶喜が大政を奉還し、明治元年(1968年)王政復古の偉業がなると共に、横浜製鉄所および横須賀製鉄所は共に明治政府の管掌に帰した。小栗上野介は、すでに幕府が長くは保てないことを十分に知っていた。
  • 阿波沖の海戦、天保山沖観艦式、榎本艦隊の脱走、宮古湾の海戦、函館海戦
     慶應三年(1867年)薩長が連合して倒幕計画を立て、大政奉還後に起こった鳥羽・伏見の戦いと同時期に旧幕府と薩摩藩の軍艦が阿波沖海戦を戦った。これが帝国海軍における洋式軍艦での海戦の最初だった。その後、明治天皇は天保山に行幸され、海軍出征に先立ち御親閲し、観艦式を挙行された。帝国海軍最初の観艦式であった。江戸城無血開城後に、旧幕府軍艦の半数は朝廷に献納され、半数は徳川家に分与された。この榎本艦隊は、佐幕・主戦派の逃げ場の一つで、榎本武揚は奥羽諸藩を助けると決心し、品川沖を脱した。奥羽の地は次第に官軍に帰したので、蝦夷地開拓に向い、五稜郭を占領した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、宮古湾にて官軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。函館戦争において、官軍の蝦夷上陸から函館総攻撃までの間に、函館海戦が行われ、これをもって維新の戦乱はすべて終わりを告げた。

 江戸時代末期に国防のために海軍力増強の必要性を悟り、海軍操練所が設立され、日本人の手による太平洋横断が実施された。幕府がいち早く小笠原諸島領有を宣言しなければ、英米の手に渡っていた。小栗上野介は、幕府が消滅することを承知で、日本の将来のために近代的な横須賀製鉄所を起工した。強い海軍を整備し、日本国を守ろうという挑戦は、江戸時代からあったのです✊

📚 ノモンハン実戦記
著者:樋口紅陽
発売日:2022年3月7日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。

 昭和15年(1940年)刊行。
 史実では語られない、戦場で華と散った男たちの物語です。著者が数ヶ月の現地調査によって、戦後の作家には決して書けないような生々しい実戦記録を綴られました。

  • 喉が渇ききった戦友のために砂漠を掘り続けた上等兵の奇跡
  • 重傷者を背負って敵弾の雨あられの中を突破する勇敢な兵士たち
  • 自分の命が尽きるまで、部下の安否を心配した軍曹の人間力
  • 墜落した友軍機の搭乗員を決死の覚悟で助けに行く部隊員たち
  • 足に銃弾が貫通しながらも電話線を修復した通信員の不屈精神
  • 敵の投降者に食べ物を分け与えた心温まる人情劇
  • etc…

 ノモンハン事件は昭和14年5月4日に外蒙軍が越境し、満州国の警察隊と衝突した事件から始まります。敵の不法越境は、地上部隊のみではなく、飛行機もしばしば満州国領に侵入して、盲爆撃をするに至りました。これは越境事件の範囲を超えて、明らかに満州国の平和を撹乱しようと企てたものでありました。もしこのような不法侵犯を黙認し、建前の隠忍自重を守っていたとすれば、外蒙ソ連機はますます図に乗って、満州国の各地に侵入、不法爆撃を敢えてしないとも限らない状況であり、直ちに自衛権を発動して、積極的に一大鉄槌を加うべきでした。しかし、どこまでも善隣友好の道義的態度から、日満当局は外蒙ソ連当局に向かって厳重抗議を発し、戦闘は局地的なものにとどまりました。外蒙ソ連兵は、撃退されては越境し、越境しては撃退されましたが、そのたびごとに、ハルハ河畔の草原は、血にいろどられたとのことです。
 こうした越境に次ぐに越境、不法に重ぬるに不法を以ってしたので、事件は第一次から第二次へ、第二次から第三次へと進展して、ホロンバイルの広原、延々七百キロの戦線に亘って、一大激戦は展開されていきました。

 この本は日本側の当時のノンフィクションとして貴重な資料です。ノモンハンではソ連の進んだ機械化部隊に対して、作戦指導の中枢神経となった参謀2名が先入観に支配されて、認識と対応が現実的でなく不合理であり、日本軍は大敗北を喫した。そして何度でも同じ誤りを繰り返し、3年後のガダルカナル戦失敗につながった、などと評されてきました。しかし、ソ連崩壊後ロシア当局から出始めた公文書によって、ソ連軍の損害は外蒙軍を含まなくても、日本軍よりはるかに多い、ということが判明しました。ソ連軍の戦車は装甲射撃もできないような低レベルで、日本軍の極めて高性能の速射砲と高射砲の標的となり、ソ連軍の戦闘機も低性能のお粗末なもので、日本の戦闘機に比べてまったく話にならなかったとのことです。この本では、彼我の戦力差にも関わらず、空中戦では圧倒的な撃墜数であったとか、火炎瓶や戦車地雷なども使用した肉弾突撃で、敵の機械化部隊を壊滅したといった記述が見られますが、あながち日本側の宣伝目的に誇張された文章でもないかもしれない、と思いました。

 ソ連側の情報公開が進めば、ソ連側の犠牲者の数はさらに大きくなると思われます。日本は戦後の自虐史観によって、ノモンハン事件を正当に評価できていないので、この本は当時の戦況の真相を物語り、日本軍の壮烈な奮戦の有様を伝える貴重な資料と言えます📚

📚 子供のための戦争の話
著者:櫻井忠温
発売日:2024年4月30日

おすすめ度:

評価 :4/5。

🎉🌟


子供のための戦争の話

 昭和8年(1933年)刊行。世界的ベストセラー作家の元日本軍人が戦前の子どもたちのために書いた「戦争とは何か」。戦争はどうして行われるか?行われたか?どうして戦争するのか?その武器は?現在は?将来は?ということが、この書には書かれています。

 人間の歴史があってから、平和というものはほとんどなく、皆戦争の歴史で満たされているというくらいである。国には各々利害があり、個人のようには行かない。国家の体面ということになると、そうそうは引っ込めない。一応は戦争で勝負を決することになる。
 「国際連盟」が欧州戦争後に生まれた。互いに国際上の争いを裁判して、戦争を防止しようというのであるが、めいめい自国の言い分があるので、公平な判決を下し得ない。平和の使徒でなく、戦争製造会社の社員みたいなような委員で何が出来よう?やはり国家の争いは砲火の間に見ゆるのほかはないのである。
 日本に限って、正義をよそにした戦争を行なったことはない。正理正道の戦争である。平和を念じてのやむを得ざる戦争である。日清、日露、満州、皆それであった。戦争はおこるべきときに起こるのでなく、解け難い原因は、あるきっかけから、思わざる大戦争ともなるのである。

 大砲や鉄砲の戦争ばかりではなく、宣伝戦(新聞、ポスター、ビラ、戦争映画)や、馬・犬・鳩も戦場で大活躍をしたそうです。

📚 真珠湾
著者:ブレーク・クラーク  訳者:海軍大佐 廣瀬彦太
発売日:2022年6月6日

おすすめ度:

評価 :4/5。

真珠湾

 昭和18年(1943年)刊行。
 本書は、大東亜戦争緒戦の真珠湾攻撃に関するアメリカ側の記録です。宣伝謀略戦の一翼をうけたまわって執筆され、ニューヨークとロンドンにて同時に刊行されたものを、帝国海軍大佐が翻訳し、出版されました。この本が戦時下の日本で出版されたのは、本書がアメリカ側の意図に反して、政府が隠そうとした真珠湾の損害の実態を戦闘員、非戦闘員の体験を通じて正直に告白していること、「日本軍の攻撃の想像を絶した勇敢さだけは、敢て称賛するとは言わざるまでも、これを認めざるを得ない」として、日本兵の勇敢さを描出している点にあります。戦時下において、アメリカの宣伝謀略の正体を披露して、日本国民を鼓舞する目的でした。

 また、巻末には、アメリカ政府が真珠湾惨敗の原因と真相を究明調査させた、ロバーツ委員会報告書が掲載されています。この報告書は、戦前1年にわたるアメリカの対日戦争準備の実情を、余すことなく指摘すると共に、日米戦争は、アメリカが絶対に受託不能の挑戦状を日本に突きつけた11月26日をもって、事実上開始されていたことを、はっきりと物語っているのです。日米交渉の開始に先立つこと100日も前に、アメリカ政府が日米戦争準備の公文書を発しており、真珠湾攻撃の10日前には、米参謀総長からハワイの司令官に対して、日米交渉の破局と日本の積極的行動に対する警戒を打電していたようです。

 「忘るな真珠湾」「自由平等 ー 人道主義」というお題目も、米国民の士気を対日抗戦の方向に凝結させるための謀略造語でした。後者に関しては、爆撃機が民間人を虐殺したり、日系米国人に対する不当な扱いなどが解説されています。
 過去の歴史においても、陰謀やプロパガンダが渦巻いています。情報を鵜呑みにせず、現代を冷静に生き抜くために、そして自虐史観を払拭して、日本人としての誇りを持つためにも、読んでおきたい1冊です。

📚 スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン
著者:奈良静馬
発売日:2022年6月6日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。

日本とフィリピン

 昭和17年(1942年)刊行。
 アメリカ人は海洋民族たる日本人の古来からの活動を知らない。日本人が狭い本土にのみ満足し、他から不当な圧迫を受けても何ら反発する気力のない国民と考えていました。米国に留学していた著者は、アメリカ人が読むことができる資料をもって、古来日本人の海上活動の功績と、日本人の実際の活動を知らしめる必要があると考え、フィリピンを中心とする日本人の海上活動の歴史的事実を実証しようと考えました。西暦1493年、フィリピン領有以来のスペインの官憲、司祭などが本国に宛てた報告や記録の中に、日本人の海外活動の記述を随所に見ることができ、これらの文献の大部分が英訳されているため、これを整理したのが本書です。

 ヨーロッパ、メキシコを中心とした中南米、アジア(フィリピン)を支配し、世界征服の野心を抱くスペインのフェリペ2世の時代。ルソン島マニラからはカトリックの宣教師が日本に派遣されていました。彼らはスパイの役割を果たしており、国民がキリスト教に傾いた頃を見計らって今度は軍隊を送り、新しいキリスト教徒達に援助させるという手法で、植民地を拡大していました。それに対し、100年も国内で戦争をしていた当時の日本は、世界最高の鉄砲保有国であり、最強の軍事国家でした。スペインの思惑を知っていた豊臣秀吉はルソン太守に三度の降伏勧告状を送り、また多くの海外雄飛者やマニラ在住日本人も勇敢で、ルソン太守は日本征服どころか、対日貿易の維持とマニラ防衛に苦慮していたようです。
 徳川家康や伊達政宗もフィリピンやメキシコ、スペインと交易を求めて使節を派遣していましたが、宣教師が日本征服を国王に勧めていたり、日本の海外発展を警戒して、返事を送らなかったりと、国家間の凄まじい駆け引きがあったようです。タイにおいても日本人の活動は盛んで、タイの内乱を鎮めた山田長政は、日タイ連合軍でスペイン人と勇敢に闘い、勝利しました。

 16世紀から17世紀にかけて、世界の覇権を狙っていたスペインが虎視眈々と征服を狙い、そして最も恐れていたのも日本人であったのです。教科書では詳しく触れられませんが、秀吉から家康、秀忠、家光はその当時の侵略者スペインから日本を守り、対等以上に外交で渡り合っていました。その政治力、外交力は日本人が忘れてはいけないものだと思いました。

📚 国難と北条時宗
著者:関靖
発売日:2022年9月30日

おすすめ度:

評価 :4/5。

 昭和17年(1942年)刊行。
 ユーラシア大陸を横断し、西ヨーロッパまで圧迫するほどの大帝国を築いた蒙古(モンゴル帝国)を撃退した世界的な英雄、北条時宗に関する戦前の書籍です。鎌倉幕府執権、北条得宗家に生まれた北条時宗は、武勇と学問を兼ね備えたカリスマであり、文永・弘安の役(元寇、蒙古襲来)で蒙古を撃退した3年後に、32歳の若さで世を去りました。
 万世一系の天皇をいただいて、未だかつて一回たりとも外敵から侵略されたことのない日本に対し、威嚇一点張りの外交戦を蒙古は仕掛けてきました。しかし、当時は鎌倉幕府に日本男児相模太郎北条時宗がいて、天下に号令して、朝廷を御守りしていたのです。
 教科書では2回とも神風が吹いたという簡素な記述で終わっていますが、この当時強烈なカリスマがリーダーシップを発揮して、全国の武士団が一致団結して国難に対処したのです。弘安の役でも14万という兵力がありながら、博多湾一帯に石塁を築き上げていたので、蒙古軍は上陸することができませんでした。長期戦になっており、たとえ神風が吹かなかったとしても、日本は勝利していたと言えるでしょう。
 北条時宗は、まさに蒙古から日本を守るために生まれてきた男だったのです。

📚 海の二千六百年史
著者:高須芳次郎
発売日:2022年7月31日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。

 昭和15年(1940年)刊行。
 神話および建国の時代における海国日本、遣隋使や遣唐使の時代、源平争覇の時代、蒙古襲来とその後の倭寇の猛勢、少年遣欧使節、豊臣秀吉の朝鮮征伐と南進政策、徳川家康の積極的海外発展と海外における日本人町の繁昌、鎖国時代、明治初期における海事上の発達、明治天皇の海事御奨励と海の英雄東郷元帥など、2600年間、日本民族がいかに海上において活躍し、いかに海洋上に奮闘し来ったか、又いかに海外に雄飛し、拓殖方面に通商の上に力をいたし来ったか、について書かれています。
 日本民族の海における活動が旺んなときは国栄え、活動の鈍るときは、国もおのずから元気を失う。この意味で、日本民族は、常に海を離れたり、海を忘れたりすることは出来ない。そして、日本民族のすべてが、海の歴史について、徹底した知識を抱有せねばならない。
 日本の将来は海にある。海は海国民の生命線である。海を守り、海を愛し、さらに海の外に大いに伸びることが、わが日本民族の先天的な使命であり、また永遠の使命である。海の上に飛躍せよ、雄飛せよ。太平洋の波高き今!
 大和魂が奮い立つようなわくわくする本です。

📚 裏から見た支那人
著者:高須芳次郎
発売日:2022年6月17日

おすすめ度:

評価 :4.5/5。

 昭和12年(1937年)刊行。支那(チャイナ)人の歴史、家族制度、国家と社会、宗教観、価値観などが詳細に記されています。著者自身が経験した歴史的な事件の背景や、見聞きした金銭欲しさの残忍な振る舞いなども描かれています。
 支那は国家ではなく、民衆の寄り集まった一つの社会に過ぎない。支那には政治はないのであり、統治者、官吏、警察、軍隊は如何にして最も多くを民から搾り取るか、これ以外に考えていることはないとのこと。統治者が無力であり、不誠実であり、何物も頼ることのできない民衆は、家庭生活において親も頼りにならず、妻も子もアテにならず、ヒガミ合って利己主義になっているとのことです。そして面子は高く、受けた恩はすぐに忘れ、弱者に対しては残忍で冷酷であるとのことです。煩悩を捨てられない彼らには仏教も受け入れられません。
 日本では、教科書でも出版物でも中国を美化しすぎているのかもしれません。「論語」「項羽と劉邦」「三国志」など、物語が美しく描写されていますが、大半が作り話である可能性が高いです。
 昔も現在も彼らの性質は変わらないです。世のため人のために尽くそうとする日本人とは、思想や価値観が全く相いれないのであって、そのことを僕達は歴史から学ぶ必要があります。戦前の人達は既に彼らの本質を見抜いて、十分な考察を残してくれているので、彼らとの付き合い方を間違えないために、ここから学ぶことは多いです。

📚 東亜全局の動揺 我が国是と日支露の関係・満蒙の現状
著者:松岡洋右
発売日:2022年2月18日

おすすめ度:

評価 :4/5。

 満州事変勃発直後の1931年9月25日に発行された原本の復刻版。松岡洋右はその後、1932年に満州問題を審議する国際連盟に全権大使として出席している。
 日本と支那、ロシア(ソ連)との関係や満州・内モンゴルとこれら周辺国の地政学的な関係について述べている。
 日露戦争後のロシアとの関係では北洋漁業で大きな問題があった。また、満州は歴史的に漢民族の土地ではなく、従って大和民族、漢民族、朝鮮人、蒙古人、満州人の五民族が、自由・平等の立場を与えられるべきである。そして、米英仏独含め、世界全人類に向かって満州・内モンゴルの完全なる解放を希望していた。しかし、満州の治安は日に日に悪化し、満州が平和的に発展することはなかったのである。

 戦前の日本人は、こんなにも自国と他国の歴史や世界情勢を鑑みて、日本人が自信を持って進むべき道を説いていたんだなと、思いました。白人ばかりの国際連盟で、人種差別撤廃を訴えていたのは日本だけでしたよね。戦前に白人達を相手に戦った偉大な日本人のことを、僕たちは知らなすぎるので、もっと知りたい、もっと日本人の気概を知りたいと思いました。